旧会津西街道を辿る山旅:その1

【12月2日 旧会津西街道を辿る山旅:その1】


先般、ヘバ殿とポレスター姫とデイダラボッチ爺の3人は、
深山ダム奥の林道終点から三斗小屋宿跡を経由して流石山を目指した。
爺は井戸沢を遡ってダイレクトに流石山を目指し、
殿と姫は三斗小屋温泉と大峠を経由して流石山を目指したのだった。

その帰り道に峠沢と中ノ沢を渡ってから三斗小屋温泉への登山道を右に逸れ、
会津中街道と呼ばれる古道を辿ってみた。
元々三斗小屋宿跡や会津西街道・会津中街道に関心を寄せていた殿は、
爾来、失われかけた古道探索に2週連続で精を出し、
とりあえず旧会津西街道の一部分(脇街道または川治古道)に足跡を標したそうな。

その歴史浪漫街道とも言うべき古道を、
12月2日、殿・姫・hosoyaさん・マサコさん・爺の5人で辿ってみた。
6時間丁度の山旅だった。


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高原新田宿跡(現鶏頂山開拓)からの鶏頂山


「会津西街道は、江戸時代に会津藩主・保科正之によって整備された、
会津の若松城下から下野の今市に到る街道。下野街道とも称する。
経路は福島県会津若松市から栃木県日光市今市までの全長130キロメートルに
及び、現在の福島県道131号下郷会津本郷線、国道121号に沿っている。
会津西街道は関東側からの呼称で、会津側からは下野街道、あるいは南山通り
(みなみやまどおり)とも称されていた。江戸時代には会津藩、新発田藩、村上藩、
庄内藩、米沢藩などの参勤交代や江戸と会津以北を結ぶ物流の道として重要な
街道であった。1884年(明治17年)、会津西街道に代わる新道、会津三方道路
(国道121号の前身)が整備されたことに伴い、主要街道としての機能は衰退して
いった。」

宿場は、若松城下-福永宿-関山宿-氷玉峠-大内峠-大内宿-中山峠-倉谷宿
-八幡峠-楢原宿-田島宿-川島宿-糸沢宿-山王峠-横川宿-中三依宿-
五十里宿-高原新田宿-藤原宿-大原宿-高徳宿-大桑宿-今市宿   
                                       ウィキペディアより引用 



今回は、上記の藤原宿と高原新田宿との中間に位置する川治温泉から五十里宿近く
までの片道通行になるので、
(栃木県側から見て)湯西川温泉駅先の片足沢橋近くに1台をデポし、
もう1台は川治温泉消防署脇の林道を上り詰めた平方山遊歩道入口に回した。


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8:00、平方山遊歩道から古道に踏み入る。極力古道を辿ろうとするが、後に敷設された電信線の作業道や林道が一部紛れ込んでいるように感じられた。雪に覆われた足元は人跡を隠していたから確かめようもなかったが

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風雪で道型が崩れてしまった急斜面には、深々と枯葉が堆積しているので滑落注意


一旦大きく緩く左にスイッチバックする(何らかの作業道跡?)と尾根通しの道になる。
尾根あるいは尾根をちょっと外した部分には微かな凹型が感じられるのでそれを辿る。
やがて分岐標識が。

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分岐

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左が高原新田宿方面、右が藤原宿方面


荷馬車が通行できるように開削された道だからそれ程の急坂はない。
勾配の強い尾根に差し掛かった際は緩く尾根を回りこんで平滑化を図っているので、
際立った切通しも全く見受けられなかった。

その旧街道と並行するように、鶏頂山開拓への電信線が北北東に伸びている。
いつ頃敷設されたものなのか定かではないが、
木製の電柱でないところから最近のものだろうと推察できる。

尾根通しは背の高い落葉広葉樹林帯なので、
そのテリトリー一帯の樹床は深々とした落ち葉に散り敷かれている。
そのくらいだから見通しはいい。
特に、普段見ている真裏側からの女峰山・帝釈山・男体山・白根山が秀逸だ。
ところがドッコイ、カメラで捉えようとすると梢が邪魔をして焦点がウロチョロ。

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女峰山の右手に真っ白な白根山が光っているのだが・・・

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道型を靴底に感じ取りながら古道を辿る

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陽だまりで1枚脱ぐ


陽だまりで休憩した後、ほんの2~30分間混合林を彷徨った。
混合林があるということは古道以外にも人の手が入っている証拠なんでしょうね。
道型が交錯しているので何処もここもが古道に見えてしまう。
まして僅かながら積雪もあるし・・・。
他のブロガーの記述にも
「クマイザサや雑木で薮化しており、全行程中、最も分かり難い場所だった」とある。
本来ならこの付近で馬頭尊(『高原村中 施主 香取五兵衛 寶暦十四年 甲申
六月吉日』)
を見い出せた筈だったのに、残念。
(寶歴年間は1751年から1763年までの13年間。だから寶歴14年はない筈。
仮に寶歴14年があったとすれば干支は甲申(かのえさる)で碑文と一致するとか)


前方に鶏頂開拓の鹿避けフェンスが廻らされていて、そこに磁石石なるものがあった。
磁石石と書かれているのは磁鉄鉱のことで「文久三年下ル」(藤原から川治に通じる
新道が開通して高原道が廃止になったので、高原新田宿の村民も新道沿いに移住
した)
と彫ってあった。

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磁石石案内板

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磁石石。文久三年下ルと読める

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磁石石からの鶏頂山

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鹿避けフェンスに沿って進む

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この扉を開けて中に入る

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墓石に出合う

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同上

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守る人も参る人もいなくなった高原新田宿の人たちのお墓を、集団移転したかのように思える。享保や文化などの年号が読み取れる


高原新田問屋屋敷跡手前の広場で一息入れる。
快晴ではないものの風もなく温とくてしごく穏か。

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高原新田問屋屋敷跡の案内板

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屋敷跡


この屋敷跡のすぐ先で鶏頂開拓を貫く舗装道路に出る。
私たちはその舗装道路を暫らく歩くことになるのだが、
道路出合付近にも史跡類や開拓記念碑が多く見られる。

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私たちは舗装道路を歩いた。
ところが家に戻ってから調べなおしてみると、
屋敷跡から電波中継塔の建つ丘陵(標高約1245m)に登れば、
その先に細々と道が続いているらしいことを知った。
見逃した馬頭尊と言い、1度や2度の探索では埋もれた古道探しは難しい。

その2に続きます

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